サロンのご案内

ゆったりとした時間の中で文化・芸術・食を楽しみ、交流する居心地のよい空間。

「知に遊び味に遊ぶ会」ご案内
安田文吉先生の新講座、第6回開催!

 


開催案内


演 題文さんの名古屋じまん 第6回
日 時2024年6月8日(土)11:30~
場 所うなぎ有本
会 費10,000円(食事・飲み物付)
ご予約TEL・FAX 052-763-3807

過去回

第1回 はじめまして 本丸・金鯱・天守閣
第2回 徳川家康の深謀
第3回 春の名古屋 お節句と名古屋ご飯
第4回 徳川宗春の英断 奥州梁川藩の苞(つつっこ)曳き祭を巡って
第5回 木造名古屋城天守閣早期完成を目指して

ちょっと一言

〝もっと名古屋を知ろう〟

●家康の清須越し

信長は「天下布武(武力を以て天下を取る)」といって戦い、家康は「厭離穢土 欣求浄土」の旗印の下、関ケ原の合戦に勝利した。家康は元々戦さ嫌いで「鳴かぬなら鳴くまで待とう不如帰」と喩えられた。桶狭間の合戦で十九才だった家康は、今川方だったため、戦に敗れ、岡崎の大樹寺まで逃げ帰り、先祖の墓の前で自害しようとしたとき、十三代登誉上人から「往生要集」の中の言葉「厭離穢土、欣求浄土」(この世は汚れた世だから早く浄土にしなさい=戦国の世を早く終わって平和な世の中にしなさい)を教えられ、自害は思いとどまり、上人の教えに叶う世の中にしようと決意も新たにしました。
折から、織田方の追っ手が大樹寺に迫りましたが、七十人力の祖洞和尚が総門の貫木(かんぬき)を振り回して、衆僧と共に追い返しました。以来、本寺には「立志開運貫木神」として登誉上人像の上に祀られています。
天下を攻った家康は、元号も慶長から元和に変えました。「元和」とは「元和偃武(武を偃めて和をはじめる)」の意。
尾張の名古屋は日本の真ん中、木曽の山、木曽三川、伊勢湾、濃尾平野という豊かな自然に恵まれた生産性の高い土地柄で、濃尾平野は殆んどが二毛作で飢饉も一揆もなかった。
家康はお城を、清須から名古屋の地に移し、同時に清須の町全体(町人も農民も寺院神社も)も名古屋に移した(清須越し)。築城を計画したのは慶長十四年。築城開始は同十五年、十九年には殆んど完成しました。初代尾張藩主は初め、家康の四男松平忠吉でしたが、関ケ原の合戦の傷が元で亡くなってしまいましたので、九男義利(後の義直)が正式な尾張初代藩主となり、元和二年名古屋城に入りました。
名古屋城のモデルは姫路城、本丸御殿は二条城がモデルでした。基盤割りは京都の町割りです。
名古屋城には姫路城の二倍の規模を持ちます。
昭和五年十二月に城郭として最初の国宝に指定されました。
姫路城は翌年の正月、国宝として二番目の指定でした。

●名古屋文化のいろいろ

名古屋文化を挙げると名古屋弁(名古屋言葉)、食文化助六寿司の語源、日本一抹茶好きの土地柄、芸処、踊り、フィギュアスケート、能、狂言、浄瑠璃、名古屋甚句、書道、華道、茶道などの習い事、物作りとして、からくり人形山車、仏具、仏壇、木桶(葛飾北斎)の「富嶽三十六景 尾張不二見原図」、味噌、溜まり、酢、酒など実に多種多様なものがあることがわかります。
こんな豊かな土地、名古屋に生きている我々は、名古屋に感謝し、もっと名古屋を愛し、名古屋の素晴らしさを子々孫々にまで伝えなければなりません。
木造名古屋城天守閣を当時のまま、原型で早期完成を祈願しております。

令和6年6月吉日
有本 雪月子