2024.11.2(土)開催「文さんの名古屋じまん」安田文吉先生の新講座、好評につき第10回開催!
安田文吉先生の新講座、第10回開催!
開催案内
演 題 | 文さんの名古屋じまん 第10回 |
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日 時 | 2024年11月2日(土)11:30~ |
場 所 | うなぎ有本 |
会 費 | 10,000円(食事・飲み物付) |
ご予約 | TEL・FAX 052-763-3807 |
過去回
第1回 はじめまして 本丸・金鯱・天守閣
第2回 徳川家康の深謀
第3回 春の名古屋 お節句と名古屋ご飯
第4回 徳川宗春の英断 奥州梁川藩の苞(つつっこ)曳き祭を巡って
第5回 木造名古屋城天守閣早期完成を目指して
第6回 熱田さんの祭は熱田の神の祭と天王祭
第7回 熱田祭と天王祭のDVD鑑賞
第8回 「秋来ぬと目にはさやかに見えぬども風のをとにぞおどろかぬる」秋の食文化
第9回 睦月連理玉椿(むつまじきれんりのたまつばき)[名古屋心中]
ちょっと一言
〝もっと名古屋を知ろう〟
享保十八年(一七三三)に起こった「闇之森(くらがりのもり)心中」(別名「名古屋心中」)事件。飴屋町(現中区橘一丁目、東別院の北側)花村屋抱えの遊女小さんと日置村畳屋喜八とが、闇之森八幡社(中区正木三丁目にある)で心中を謀った。もともと二人は心中する気持ちなどさらさら無く、親への手前、二人は死ぬほど愛し合っていることを示したかっただけ。だから勿論心中は未遂に終わったのが当時は大変な評判になった。
吉宗は心中が大嫌い、心中という言葉も嫌い、新たに「相対死」という新造語を作った次第。二人は宗春公の温情判決を心中未遂だったが、果たして宗春公の処置は、吉宗の法度に違うものでもなく、心中生き残りの者に対する処罰、三日間の晒しの刑はちゃんと行ったが晒す時間を非常に短くしたものだった。その二人の着衣が歌舞伎役者顔負けの派手なものだったし、翌年二月に出た処置は吉宗のように非人に下するのではなく、身分はそのままで、二人を旅籠町の親元に帰すというものだった。この処置も大評判となった。
心中事件のあった享保十八年頃、名古屋に滞在していた宮古路豊後(後に受領して豊後掾)が、この事件を新作心中浄瑠璃に仕立てた。『睦月連理玉椿』と題して、享保十九年正月に基盤割りの袋町筋黄金薬師(中区錦三丁目)で上演され、大好評と博し、観客も押すな押すなの人で、広小路も狭小路になりけるとさえ言われたほどだった。その原因は豊後掾の語り口が、官能的で人の感性に訴えるものであったのと、新作心中浄瑠璃というか、新作心中物は享保八年の大岡越前守のお触れによって、全国に禁止されていたので、新作心中物に飢えていた民衆はとても喜んだらしい。
それと禁止令を破っての上演に幕府から何のお咎めも無かったのは、やはり、吉宗と宗春の良好な間柄が有ったからでは無かったか。この大当りを持って豊後掾は江戸に下り、享保十九年の九月、蘆屋町(葦屋町)河岸の小芝居で本曲を上演、これも又大当りで、翌年の春、江戸三座の一つの中村座で上演したところ、またまた大当りの大評判。以後、豊後節は江戸席巻する浄瑠璃となり、特に若者に人気が出、高弟の宮古路文字太夫のファッションまで取り込んで当時新たに作られた元文新小判の文字が楷書だったところから、真文字金、略して文金と呼ばれ、この「文字」と文字太夫の「文字」が重なるところから、このファッションが文金風と呼ばれた。江戸でも幕府のお咎めは皆無であった。後の話だが、元文四年(一七三九)宗春失脚後、同年十月に豊後節も全面禁止となり、その後、豊後掾は京都に帰ったが高弟の文字太夫は江戸に残り、延亭四年(一七四八)、豊後節に新しい節の工夫を加え、常磐津節を創流した。
常磐津から小文字太夫が離れて、富本節を立ち上げた。文字太夫の弟弟子は、新内節を立ち上げ、後年文化十一年(一八一四)富本から清元節が生まれる。
世に豊後三流と言えば、常磐津、富本、清元を指す。その切っ掛けとなったのは、宗春公治下の名古屋城下町であったことに注目される。
名古屋に城下町が出来たのは、慶長十五年頃だが、宗春は名古屋の更なる活性化を目指し、基本政策書「温知政要」を出し、規制緩和による経済活性化を実行した。この活性化の起爆剤として、祭礼を元の通り華やかなものに戻し、芝居(歌舞伎、浄瑠璃)小屋建築を大幅に許可、富士見原、西小路、葛町の三廊を公許した。
これらの施設の建築には大工、左官をはじめ、表具師、指物師、畳屋など多くの職人を必要とした上、完成を急がせたので、職人の収入も急に豊かになったと思われる。
名古屋心中で有名になったあの畳屋喜八もそんな職人の一人であったのではなかろうか。くどいようだが名古屋心中事件の二人の処分が軽く済んだのと、豊後掾が新作心中浄瑠璃を上演できたのは、人間の尊厳を大切にする宗春の開放的政策の故である。是により名古屋の経済力はさらに発展したのである。
令和6年10月末日
有本 雪月子